金曜の夜、居酒屋の座敷。乾杯の音頭が回ってくる前に、彼はもう全員分のグラスを配り終えていた。
うちのサークルに三年いた男の子の話ね。誰より早く着いて、席を整えて、遅れてきた人の取り皿までスッと差し出す子だった。会が終われば、酔いつぶれた参加者を駅まで送る。年下にも敬語を崩さない。イベントの感想アンケート、自由記入の欄に彼の名前がよく並んでた。あの人ほんとナイスガイですよね、って。
で、その彼が、三年間ひとりも彼女ができなかった。ゼロ!
解散後の駅のホームで、女の子ふたりがこそっと話してるのを聞いちゃったことがある。あの子っていい人だよね、彼氏にはならないけど。ふたりとも、ちょっと笑ってた。悪気は、ないの。むしろ好意のこもった口ぶり。それでも彼女たちの中で、彼はもう恋の候補から静かに外されてた。いい人っていう称号の裏側は、そういうことだったりする。
ナイスガイって言われて、まっすぐ喜べる?褒められてるはずなのに、胸のあたりがざわっとして落ち着かない。その勘、当たってるよ。ナイスガイ、いい人、優しいね。現場でこれらは、恋のスタートラインにまだ立ててない合図として飛び交ってる。びっくりするくらい、しょっちゅう。
辞書を引けば、感じのいい男性、すてきな人。日本語だとまっすぐな褒め言葉さ。ところが英語のnice guyには、いい人だけど恋愛対象にはならない、っていう皮肉がしれっと混ざる。今日ここで掘り下げたいのは、あの子が三年かけて頭からぶつかった、好かれるのに選ばれない、その壁のこと。これって遠回しに脈なしって言われてる?っていう不安にちゃんと答えるね。
「いい人なんだけど」の日
彼が一度だけ、動いたことがある。同じサークルの、カメラが趣味の子に。二次会のカラオケで、ドリンクバーを往復するついでに、連絡先の先へ一歩踏み込もうとした。
返ってきたのは、あの決まり文句。ほんといい人なんだけど、ごめんね。
隣にいた私、グラスの氷がカランと鳴った音まで覚えてるんだよね。彼、笑ってた。えー、しょうがないっすねー、なんて軽く。でもマイクを握った右手の指が、ぐっと白くなってた。喉仏が一回、大きく上下する。次の曲、入れなかったでしょ、あの人。画面には誰かの入れたバラードが流れて、彼はただ手拍子してた。
好意はあったの。ちゃんと届いてた。優しさも、伝わってはいた。伝わってたのに、それが恋には化けなかった。ここが今日いちばん、あなたに持って帰ってほしいとこ。
好意と恋愛感情は、別々の回路で動いてる。好かれることは、恋のドアの前まで連れてってくれるよ。でもね、そのドアを開ける鍵は優しさじゃない。心理学の言葉を借りるなら、ときめきには心拍が上がるような小さな揺れがいる。安心は、その揺れをスッと打ち消す方向に働くの。皮肉だよねぇ。気を遣えば遣うほど、相手の心は凪いでいく。
言い切っちゃうね。優しさは加点要素じゃない。減点されないための最低ライン。ここを取り違えた人から順に、いい人止まりの沼に沈んでいく。優しくすれば好かれる、好かれれば選ばれる。この一本道、そもそも途中で線路が切れてるんだよね。好かれても選ばれない。それどころか、好感度を上げにいくほど恋愛対象から遠ざかる瞬間さえある。
なんで?好かれにいく人って、相手に合わせるじゃん。予定も話題もテンションも、ぜんぶ。合わせられた側は、たしかに居心地がいい。ただ、居心地のよさで心臓は跳ねない。跳ねるのは、次に何を言うか読めない相手といるとき。この人、なに考えてるんだろう、っていう掴めなさ。ナイスガイは、その掴めなさを自分の手で消し去っちゃう。全部先回りして、全部整えて、余白を残さない。
ときめきって、現場だと見分けが早い。気になる相手が話してるとき、その子の足がちょっとだけ相手のほうに向く。グラスを持つ手が止まる。笑い方が、他の人に向けるのとほんの少し違う。逆に、安心しかない相手の前だと、姿勢がぜんぶ緩んでるの。あくびすら我慢しない。ナイスガイの前で、女の子たちはたいてい後者の顔をしてた。リラックスしきってて、無防備で、そして一ミリもドキドキしてない。
女の子にも、まったく同じことが起きるよ。うちに、気配りの塊みたいな子がいてね。誰かが落ち込んでたら真っ先に気づく。飲み会の写真をきれいにまとめてLINEで配る。男の子たちからの信頼は分厚かった。ただ、その信頼の中身がさ…好きな子ができたんすけど、どう思います?っていう相談だったの。彼女はいつも聞き役。他の女の子に片想いする男の子の話を、うんうん頷いて聞いてた。優しく、丁寧に。一度ね、彼女がぽつっと言ったの。私、みんなの相談窓口だからさ、って。笑ってたけど、目は笑ってなかった。コップの持ち手を、指でずっとなぞってた。あの手つき、今でも思い出す。恋愛対象の椅子には、一度も座らせてもらえないまま。いい人問題は、性別を選ばないんだよね。
選ばれた子は、ちょっと感じが悪かった
同じ集まりに、正反対の女の子がいてね。
美人?と聞かれたら、うーん、ふつう。愛想がいい?ぜんぜん。初対面だと、へえ、そうなんですね、で会話をふつっと切るタイプ。可愛げ、ないの(笑)。でも彼女には、自分の世界があった。ひとりで山に登る子でさ。飲み会でも、山の話になった瞬間だけ目つきが変わる。稜線がどうとか、朝の空気がどうとか、語り出すと止まらない。
ある男の子が、その子に落ちた。なんで?って聞いたら、真顔でこう言ったの。あの人、俺に興味なさそうなとこがよかったんすよね、って。
ぶっ飛んだ答えでしょ。でも、からくりはそこにある。彼女は、誰かに好かれるために自分を薄めなかった。合わせにいかなかった。だから輪郭がくっきり残ったの。人はね、全方位にいい顔をする相手より、自分にだけ矢印を向けてくれる相手にどきっとする。誰にでも配る優しさは、結局どこにも着地しない霧みたいなもの。ぼんやり気持ちいいけど、掴めない。
そして、ちょっと胸に刺さる後日談。あの、三年ひとりだったナイスガイの彼、この山登りの子に相談してたんだよね。どうやったら気になる人と距離を縮められますか、って。好かれる技術を、ちゃんと選ばれてる人に教わってた。その光景を横で見てたとき、胸がきゅっとなった。惜しいのに(泣)。あんなに人に優しくできるのに矢印の向け方を、ひとつ知らないだけ。
いい人から、そっと降りる
じゃあどうすんの、って話だよね。テクニック集は正直あんまり好きじゃない。でも、現場で立ち位置がガラッと変わった人たちには、妙に共通した動きがあった。
まず、全員に優しくするのをやめること。冷たくしろ、って意味じゃないよ。気になる相手にだけ、ほんの少し特別な温度を混ぜる。他の誰にも見せない表情を、一枚だけ渡す。その差が、そのまま意味になるの。みんなに同じ笑顔をばら撒いてるうちは、その笑顔の値段はゼロのまま張り付いてる。
つぎに、自分の欲を隠さないこと。行きたい店、観たい映画、これだけは譲れない休日の過ごし方。相手に合わせる前に、まず自分の輪郭を差し出す。うちのサークルで急にモテ出した男の子がいてさ、変わったのはたった一点。二次会どこにする?でいつも全員に合わせてたのを、俺このラーメン屋行きたいんすよね、って言うようになっただけ。それだけだよ?数ヶ月後には隣に彼女がいた。ほんとに。
あと、断ること。誘いも、頼まれごとも、ときどき断る。いつでも空いてる人、いつでもYESって言う人は、相手のカレンダーの予備欄にそっと収まる。恋人って、予備欄からは生まれないんだよね。ちょっと手が届きにくい、その一点だけで人の目線は変わる。簡単に手に入るものより、少し手に入りにくいものに惹かれる。心理学でもよく言われるやつ。ずるいと思う?思うよね。でも、そういう仕組みで人の心は動いてる。
もうひとつ、現場で何度も見たやつ。ギャップ、ってやつね。ふだん物腰のやわらかい子が、ある一瞬だけ違う顔を出すと、空気がざわっと動くの。うちの飲み会で、いつもニコニコ聞き役だった男の子が、映画の話で急に譲らなかったことがあった。いや、あの監督のそこは違うと思う、って。声を荒らげたわけじゃないよ。静かに、はっきり。斜め前に座ってた女の子の視線が、その瞬間ふっと彼へ吸い寄せられたの。やわらかさの中に一本、芯が通って見えた。予測どおりの優しさに、予測できない硬さが一滴。その落差が、相手の心拍をひとつ跳ねさせる。
読みながら、胸が重くなった人もいるかも。私なんて優しさしか取り柄ないのに、ってさ。はぁ…その気持ち、置いてけぼりにはしないよ。
ここ、勘違いされやすいんだけど。恋愛対象に見られない苦しさって、モテる方法を知らないことじゃないの。私は誰かの一番になれないのかも、っていう、もっと奥のほうの冷たさ。そこがヒリつくから、優しさで埋めようとする。もっと尽くせば、もっと気を回せば、いつか振り向いてもらえるはずって。埋めれば埋めるほど、あなたの芯は優しさの下に沈んでいくのにね。逆なの。埋めるんじゃなくて、出す。
優しさを捨てろ、なんて一度も言ってない。優しさは、そのまま残す。ただ、優しさを配る前に、あなた自身の芯を先に立てるだけ。恋愛対象に見られないのは、相手にまだ見えてないから。霧の中の優しさは、どんなに温かくても誰にも掴めないんだよね。ちゃんと出してあげれば、その優しさは一気に、あなたにしか出せない武器に変わるよ。

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