打ち上げの終盤。居酒屋の一番端の席で、彼はレモンサワーの氷をカランと回しながら、ぽつりとこぼした。
「彼女、いい子なんですけどね」
その先は言わない。視線がテーブルのスマホに落ちる。画面には、三年前に別れた人のインスタ。加工された、完璧な角度の笑顔。
社会人イベントを回していると、この手の告白を年に何度も浴びることになる。深夜のトイレ前。二次会の会計待ちの列。なぜか薄暗くて逃げ場のない場所で、みんな同じ顔をして同じことを聞いてくるんだよね。
思ってしまうこと自体には、罪はひとつもない
元カノの方が可愛かった。そう頭に浮かぶこと自体は、止めようがない。脳は記憶と目の前の情報を勝手に照合するし、その処理に道徳心なんて挟まらないから。浮かんだ時点で最低認定していたら、世の中の恋愛はほぼ全滅しちゃう。
罪になるのは、その先なんだよね。
比べたことを口に出す。態度でにおわせる。別れないまま、保険として元カノのアカウントを覗き続ける。ここから先は、思考じゃなくて加害。
イベント参加者に、彼女の前で元カノの名前を出してしまった男性がいた。悪意はゼロ。会話の流れで、前に付き合ってた子がここのパンケーキ好きでさ、と。彼女の箸が皿に当たる音が止まった、あの一瞬。今でも耳に残っているらしい。半年後に別れた。理由はそれだけじゃないだろうけど、決定打にはなったよねぇ。
元カノは更新されないから、放っておくと勝手に育つ
ここ、いちばん誤解されているところ。
人の記憶は保存装置じゃなくて編集装置に近い。過去を思い出すたびに不快な部分が削られて、都合のいい部分だけが残っていく。薔薇色の回顧と呼ばれる働きで、旅行の記憶が実際より楽しかったことになるのと同じ現象が、恋愛でも普通に起きる。しかも中断された物事ほど記憶に残りやすいという性質があるから、円満に終わらなかった恋ほどしぶとく居座るわけ。
今の彼女は毎日更新される。すっぴん。寝起きの声。生理前の不機嫌。風邪をひいた日の鼻声。
元カノは更新されない。ベストショットのまま冷凍保存されてる。
これ、勝負として成立してなくない? 三年前の一番いい瞬間と、今日の火曜日の夜を並べているだけ。試合じゃなくて処刑だよ、それ。
判定方法はひとつ。元カノの短所を三つ、五秒で言えるかどうか。詰まったなら、見ているのはその人じゃない。自分の脳が編集したハイライト映像を見てる。
ケース1 可愛かった元カノに戻って、半年で消えた人
イベントで知り合った32歳の男性。会うたびに元カノの話をしていた。当時の彼女とは別れた。SNSで連絡を取って、実際によりを戻したという報告をもらったとき、声が半音上ずってたのを覚えてる。
半年後、同じ店の同じカウンターに座っていた。顔が違う。
戻ってみてわかったのは、別れた原因が何ひとつ消えていなかったこと。待ち合わせに来ない。金銭感覚が噛み合わない。二十分で会話のネタが尽きる。忘れていたんじゃなくて、脳が三年かけて消しただけだった。
「顔は、やっぱり可愛かったんですけどね」
指先でぐしゃっと潰れた枝豆の殻。それが最後に聞いた台詞。
戻ってうまくいっている人も、もちろんいる。ただその人たちは、容姿を理由に戻ったわけじゃない。理由を潰してから戻ってる。ここの差、めちゃくちゃ大きいよ。
恋しいのは元カノじゃなく、選ばれていた頃の自分
会場を歩き回っていると見えてくる光景がある。彼女を連れてくる男性の一部は、紹介した直後に周りの表情を確認する。相手の反応じゃなくて、観客の反応を見てるんだよね。自分の作品のプレゼンみたいに。
これが正体だと思ってる。
彼女の顔を、自分の値札として使っている。可愛い人に選ばれていた頃の自分は、確かに強かった。その感覚を手放したくないだけで、当の元カノ本人にはさして興味がなかったりする。
裏づけになる観測がひとつ。この相談、仕事が停滞している時期に集中して増える。数字が出ない、上司に評価されない、同期に抜かれた。そういう月に限って、彼女の顔が急に気になり始める。
三十代の男性で、これを自分で言い当てた人がいた。転職して数字が戻った途端、彼女がやたら可愛く見えてきたと。いや、彼女は何も変わってないんだが?(笑)
自己評価が下がると、隣の人の粗が見える。逆じゃない。
ケース2 比べられている側から見えていた景色
29歳の女性。彼氏の元カノのアカウントを、毎晩ベッドの中で開いていた。
真っ暗な部屋で画面だけが光ってる。心臓の音がうるさくて寝つけない。指はもう勝手に動く。
彼女がぽろっと言ったのは、彼から比較する言葉をかけられたことは一度もない、という事実だった。一度もないのに、毎晩負けていた。会ったこともない人を最強に仕立て上げていたのは、彼女自身の想像力。
ただ、本当に比べられている人もいる。見分ける手がかりは言葉じゃなくて所作の方。写真を撮るときの雑さ。記念日の温度。誰かに紹介するときの言葉数。ここに明確な差があるなら、それは想像じゃなくて現実。
彼女は結局その人と別れた。半年後のイベントで会ったとき、髪を肩まで切っていた。笑い方が変わってて、肩の位置が前より低くなってた。
顔への不満は、たいてい別の不満の誤訳
交際期間が延びれば、相手が誰でもドキドキは減る。世界一の美人と付き合っても減る。ここは避けられない。
なのに人は、原因を目に見えるものに貼りたがる。顔は見える。だから犯人にされる。
参加者に細かく聞いていくと、彼女の容姿が気になり始めた時期と、二人の会話量が落ちた時期がほぼ重なる。ちゃんと話を聞かれなくなった。褒められなくなった。触れられなくなった。この空洞の説明として、顔が使われているだけ。
だから顔の話をしている人に顔の話を返しても、何も解決しないんだよね。
ケース3 容姿を理由に別れて、それが正解だった人
全員に続けろと言うつもりはない。ここは正直に書く。
30歳の男性。二年付き合って、どうしても手が伸びなくなった。半年我慢して、それでも戻らなかった。彼が誠実だったのは、彼女のせいにしなかったところ。自分の側が変わってしまったと伝えて、別れた。恨まれたけど、嘘はつかなかった。
その後に出会った人と、今は結婚してる。
我慢して続けた関係が相手を幸せにするとは限らない。触れたいと思えない状態が一年以上続いているなら、それは相手にとっても時間の損失。別れを選ぶことそのものは、裏切りじゃないよ。
裏切りは、決めないまま隣にいることの方。
別れるにしても、続けるにしても
一番やってはいけないのは、別れないまま元カノのSNSを見続けること。相手の一年を借りたまま、心を別の場所に置いている。これに比べたら、別れ話の方がよっぽど優しい。
続けると決めたなら、見る場所を変える。静止画の元カノには一生発生しない情報が、目の前の人には毎日出てくる。寝癖の形。喉が渇いたときの声。財布を出すタイミング。ここを面白がれるかどうかで、三年後がまるっきり変わる。
環境もいじった方がいい。同じ部屋、同じ会話、同じ週末を繰り返している脳に、新しい信号は出てこない。イベントで見ていて長く続くカップルは、二人で初めての場所に行く回数が異様に多い。ドキドキを相手に発注しないで、自分たちで作りにいってる。
元カノの顔は、これから先もずっと勝ち続ける。更新されないんだから当たり前。その勝てない試合を降りた人から順番に、目の前の人の顔つきが変わって見えてくる。

コメント